トッシーの伊達なブログ

”グルメや観光だけじゃない、私が感じたちょっとイイとこ!!”

北五番丁、北鍛冶町

この一角は、普段から交通量が多く“辻標(つじひょう)”に目をやる人はすくない

歩きの人ならじっくりと見れるが、車では少々無理がある

【碑文-北五番町】
東は宮町、西は土橋通(どばしどおり)に至る長い侍丁で、正保年間(*しょうほう)の絵図では北鍛冶町(きたかじまち)以西にのみ侍屋敷が配置され、寛文期(*かんぶんきー1660年代)までに宮町(みやまち)方面へ拡張された。江戸後期には度重なる(たびかさなる)凶作で荒廃し、明治末の現大学病院設置で木町通(きまちどおり)以西の大部分が寸断された。
【碑文-北鍛冶町】
奥州街道筋の北四番丁と北六番丁間に位置する町名で、いわゆる町方二十四町(*まちかたにじゅうよんちょう)のひとつである。城下創設の際に鍛冶職衆を配置した一帯を寛永末期(*かんえい)ころ侍屋敷とするため南、北の鍛冶町に分割、再配置して成立した。これに伴い、分割前のまちは元鍛冶町と称された。

*正保年間ー1644~1648、 
*寛文年間ー1661~1673、(1671寛文11年伊達騒動
*町方二十四町ー【仙台市公式ホームページ”町名に見る城下町”参照】
www.city.sendai.jp

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