*1 中島丁方面*2 澱橋
この界隈は学生が多かった。宮城一女、尚絅、ドミニコ,仙台二高、、、東北大、、、印象に残っているのはそれぐらい。
【碑文-角五郎町】
渡守(わたしもり)角五郎の名から丁名ができたという。昔は御職人の町で、のちに御旗本足軽の丁となった。澱橋が出来た頃、新坂、へくり沢を越して川岸沿いに澱町,中島丁新坂と交叉し、角五郎丁と連なった。西南の川岸に木場があったが幕末には*講武所になった。
*講武所-幕末に幕府が設けた武術修練所
【碑文ー中島丁】
この地は北十二軒丁との間にへくり沢があり南は広瀬川に向って、滝前丁、角五郎丁が一段低く中島のようになっているのでこの名ができた。へくり沢の土橋から又五郎坂を登り、滝前丁まで行く侍屋敷であった。元禄八年(1695)澱橋の完成と共に中島丁新坂がひらかれた。