トッシーの伊達なブログ

”グルメや観光だけじゃない、私が感じたちょっとイイとこ!!”

北六番丁、木町通


*1  辻標

*2  北六から北山トンネル方面を見る

*3  北六から木町通り方面を見る

*4  木町通り、右手が大学病院

この木町通りは北山トンネル開通で前にも増して交通量がふえ、朝夕は渋滞する。*4の突き当りは旧国道48号線であるが。トンネルから出てきた車を吸収するには不十分な道幅である。この周辺はむかしからの建物、土蔵なども有ったが、先の東日本大震災などで打撃を受け、年々取り壊され更地やアパートなどが新しく建ち、それらが町を変貌させている。

旧48号線には路面電車が走っていたが終点の八幡町までは乗ったことがなかった。長町に下宿当時はいつも南町通りで電車を降り同級生がバイトをしている雀球屋(パチンコ屋さん)で遊んでいた。本町の予備校にはなかなかたどり着かなかった。

【碑文ー北六番丁】
ふるくは土橋通から北鍛冶町まで、南側を四ッ谷堰が東流、宮町まで延長され、両側は侍丁となる。原田甲斐供養の万日堂も建つ。明治以降北鍛冶町角に米搗水車がたち、道沿いの低地は田となる。大正末年この地に旧制二高がたち、戦後東北大農学部とさる。堰堀は地下に埋められ道幅拡がる。

【碑文ー木町通】
北山覚範前から数えて九丁目の、北一番丁で木町に続いた。角には阿倍、吉須など三百石の武士、北八番丁以北にはお足軽 が住んだ。明治以降北四番丁東南角に小学校ができた。四丁目以南西側に旧制二中、宮城病院ができたが今は大学病院構内となっている。
市制施行八十八周年記念  仙台市

東一番丁、定禪寺通

*1  定禅寺通り中央分離帯から勾当台通り方面を見る 右手が仙台三越

*2  辻標

*3  国分町方面を見る

*4  辻標の周りの植え込みで下部が読みにくい

杜の都仙台を象徴する地域でテレビ番組にもよく出る。
定禅寺ジャズフェスティバル、青葉祭り、光のページェント等、1年をとうして何かしらのイベントなどが行われる。
夏場は定禅寺通り中央分離帯公園の木陰で涼む人たちが多い。
歌手の梶原あきら・伊東純子の『ふたりの仙台』を検索して聴いてみてください。いい歌です。


【碑文ー東一番丁】
寛文の頃玉沢横丁北西角に糠藁の倉があったので北半を糠倉丁とも呼んだ。五百石の山家豊三郎は維新後邸内に数十戸を建て山家横丁と称し、以来国分町
裏町として芝居小屋、映画館、茶店ができ、大学の拡大、三越の進出等で賑わい、東北一の商店街に発展した。 市制施行八十八周年記念  仙台市

【碑文ー定禪寺通】
東三番丁の北端にあった定禅寺の門前から西の通りをいい
国分町で定禅寺通櫓丁に連なる。大正初年大聖寺の敷地を切り割い、東に伸び錦丁(長丁)に連なり、市電開通後次々と広げられ現在に至った。明治初年定禅寺跡に陸軍病院ができ戦後その跡に国の合同庁舎ができた。

Amazon | 本, ファッション, 家電から食品まで | アマゾン

跡付丁、北材木町

*1  道路突き当りは定禅寺通り    辻標は交差点左角

*2  辻標 駐車場の出入り口にあるせいか下部が欠けている

*3  突き当りは旧国道48号線、突き抜けると木町通り 右に行くと晩翠通り

狭い道ではあるが南北に走る使い勝手の良い道路である。
*1の突き当たりの定禅寺通りを左に行ったところに会社の専務に連れられていったキャバレーがあった。 
20代のときはそこにいくのが楽しみであった。当時のキャバレーはホステスさんが100人近くいた。若い子から50代のオバサンまでバリエーションが豊富だった。
今から思えばなんと贅沢な大人の遊びであったろうか。今のキャバクラとは”似て非なる”ものである。
連れていってもらったときは歌手の朱里エイコのショーをやっていた。彼女のはいていたストッキングがデンセンしていて破れているのがわかるくらい、ステージの最前列でみた記憶がある。


【碑文ー跡付丁】
通りの北側は北一番丁の侍屋敷、南側は北材木町の町屋と接し、これらと併行して侍屋敷が配置された東西軸のまちである。北一番丁南後(うら)町とも称し、繫華街に近いため太鼓持ちの別称である跡付衆が住んだことに由来するとの説もある。戦災復興事業で中央部の細横丁付近が廃道となり、丁が東西に分された。

【碑文ー北材木町】
城下町方二十四町のひとつで、慶長年間(一六〇〇年代初め)に本材木町から分離して成立したとみられる。材木商、大工、指物師などが住む南北軸、東西軸二つの町並みをけいせいし、材木の独占販売権が与えられて力を誇った。材木市が立ち、四伝馬町のひとつとしても栄えた。位置は変わったが春日神社も古くからまつられている。



ベストセラー

東三番丁、鉄砲横丁

*1 五番丁方面を望む  左手は五橋公園 辻標は交差点左角

*2 辻標

*3 五橋方面を見る  信号機手前の右側の植え込みは仙台中央署

*4 北目町通り方面を見る  左手のマンシヨンの裏側に河北新報社

辻標の碑文にあるとおり、現在も弁護士や医者が多く住む地域である

駅には近いし買い物にもすごく便利なところである

近年は仙台朝市周辺も飲食店も増え人出も増えた
 
近くの某スーパーは昔ラジオの生放送をやっていて、若い人たちが多かった

今は新しい商業施設ビルも出来ていて人気のあるスポットとなっている

私が20代の頃は今の駅前のバスプール辺りは空き地で、そこに車を止めてオー

ルナイトの映画を観に行ったりしていた



【碑文ー東三番丁】
昔は侍丁で、北端の小高い所に大聖寺聖天様があり同心町に接していた。
南は清水小路に入っていたが明治中頃五橋まで通し、宮城女学校や河北新報社ができた。弁護士、医者の多い屋敷町であったが、戦後は県庁から真直な通りとなった。   市制施行八十八周年記念  仙台市

【碑文ー鉄砲横丁】
北目町と東北大学の構内となった桜小路との間の通りで、西の方に九軒の武家屋敷があった。北目町南角に鍛冶屋があったのでこの名がでたのであろう。市制施行のころ東に延長され清水小路東華学校前に通じた。古老は東華通りとも新丁とも呼んだ。

大正九年一二月・七郷村青年團中央分團

*1  交差点にあるコンビニから辻標を見る (写真中央)

*2  辻標を見る

*3  交差点から産業道路方面を見る (写真左側に辻標を見る)

*4  大正9年12月の碑文  

荒井、七郷地区は近年、急激に開発が進み昔の面影を残すものは少ない

私は1年浪人生活をして結局は叔父の紹介で叔父と同じ会社に就職した

会社はこの近くで当時は田んぼの真ん中に浮き島状に新興住宅街がポツンと出

来ていた

その当時、六丁の目の”仙台整形外科病院”の南側の道路はじゃりみちであった

とにかく発展が目覚ましく、区画整理事業により道路拡幅、直線化などなど...

冗談抜きに昔からこの地区に住んでいるご老人がよく迷子になるくらい変わり

様は目を見張るものがあった

因みに昭和53年の宮城県沖地震をこの荒井で私は体験した

その時は”この世のおわりだ!”と思うくらいの激しい揺れで

大人が立っていられなくて、地べたにしゃがみ込むくらいだった

(*2の写真の碑文をもとに当時におもいを馳せてみよう。バスの終点の荒浜

は夏場は海水浴 客で賑わうところだった)


現在はこの様な防潮堤が長々とでき海水浴はできないが波打ち際で遊ぶ家族ずれをみかける  この辺りは防砂林を兼ねた松林であった

*写真の仏像右手がバスの終点広場であった

桜小路、七軒丁

*1 辻標

*2 突き当りを右に行くと片平、左に行くと東北学院大学  

*3  写真中央、門の右手にに辻標

この通りは大学構内を走る通りで、道幅が狭く、それでも朝夕は混雑する

比較的に静かな雰囲気がある

このあたりの記憶はさきのブログ(6月18日投稿)の”田町、清水小

路”に関連して*2の左手奥にあった東北大学の学食の思い出位である



【碑文ー桜小路】
東北大学敷地内にかつてあった小路で、東北大学の北にあった道場小路と弾正横丁
の辻の少し西から七軒丁に至る南北の通り。元禄六年(一六九三)以降、この通りの
まわりに馬場が新設され、その周囲に桜が植えられていたのでこの名がついたといわ
れる。安政三年(一八五六)の絵図では中身・小身の侍屋敷が並んでいる。

【碑文ー七軒丁】
上染師町(奥州街道街道)から片平に至る東西の通りで、大身・中身の武家屋敷
が北側に四軒、南側に三軒、計七軒並んでいたのでこの名がついたといわれる。
七軒丁・五橋通・連坊小路を総称して染師町通とも呼ばれた。

amzn.to

大願寺、中山峠

*1  突き当たりが大願寺

*2  大願寺に連なる植え込み、T字路の角地にある石標

*3  大願寺 正門

*4

この通りも藩政当時は中山峠を境に、御城下とその周囲の田舎、農村部をつ

なぐ主要な通りであったろう

やはり泉インターチェンジ近くの”大沢峠”(5月26日投稿のブログを参照し

てください)同様、人々が行きかい、チョッと一服するような所であったろう


この辺りの記憶も当時の私の行動範囲内にはなく、近くの北山霊園にある墓所

を父方の田舎の若柳(現栗原市)に移す際に通ったときぐらいなものである

現在は北山トンネル開通で交通量は少ない

www.amazon.co.jp