トッシーの伊達なブログ

”グルメや観光だけじゃない、私が感じたちょっとイイとこ!!”

江戸町、坊主町

*1 突き当り右へ行くと辻標

*2 選挙ポスター掲示板左手が辻標

*3 辻標

*4 辻標を背に旧国道48号線方面を見る(突き当りの信号機が48号線)

ここの辻標も雑草が茂りあまり良い状態とは言えない

勿論辻標をわざわざ見に来る人も少ないので何とも言えない

この辻標標に気を止める人は何人いるだろうか........

通りもどちらかと言えば裏通りになるので......


【碑文ー江戸町】
坊主町の南、八幡町の北、石切町の西に当る。仙台開府の頃、江戸から招かれた棟梁黒瀬清四郎正則とその配下の大工衆が居住し、江戸から来たという所   から町名としたという。黒瀬氏は幕末には約五十石の番外士とされ、町には大工衆が住んでいた。    市制施行八十八周年記念  仙台市


【碑文ー坊主町】
天和三年亀岡八幡が祀られるまで、麓に住んでいた坊主衆の大部分は龍宝寺の東北、四ッ谷堰の北に移されて町ができた。何阿彌と称した同朋衆の指導をうけ、城内の装飾、案内、接待等に奉仕した。頭を丸めていたが、藩主や重役にも接するため礼儀作法に通じた。


 

行人坂、澱橋通(よどみばしどうり)

*1 地下鉄東西線国際センター駅から行人坂を見る(辻標は写真中央の歩行者用信号機右側)

*2 辻標

*3 国際センター側からの行人坂

*4 行人坂から国際センター駅方面を見る


東北大学や仙台の学生が多く行きかうところである

私の記憶にはスポーツセンター(現在の国際センター)があった頃に、”アブドラ・ザ・ブッチャー”のプロレスを観たことくらいか.....

*写真3の左手に1~2分歩くとある表示


* 扇坂絵図の拡大図



【碑文ー澱橋通】
川内と広瀬川対岸とは、支倉渡戸(わたど)次に支倉橋で往来していた。元禄七年(一六九四)洪水で橋が流出すると、川向こうに新坂ができ、支倉橋より上流の現在地に澱橋が架けられた。元の川内筋違橋から澱橋に向かう道を澱橋通といった。

【碑文ー行人坂】
二の丸北裏にあった御裏池から広瀬川へ注ぐ千貫沢の北にあり、川内山屋敷へ続く坂。坂を登り詰めた所の南側に榎の老木があり、昔のこの地に庵を結んだ行人の塚があったのでこの名がついたという。現在は扇坂と呼ばれているが、二の丸登城口であった本来の扇坂は沢の南側にあり現在は廃道となっている。



牛越橋、川内三十人町

*1 辻標

*2 交通公園を背に川内三十人町方面を見る

*3 広瀬川に架かる牛越橋

この牛越橋の下の河原は秋の芋煮会シーズンになると、あちこちで煙があがり、いも煮を楽しむグループでいっぱいになる。
他県から来た人はあたりが煙に覆われているのを見て、『火事じゃない?』と誤解するかもしれない。それぐらい広瀬川沿いの河原は最高の芋煮会である。

*4 コンビニで薪(まき)が売られている...498円!! 高いか安いか⁇



【碑文ー牛越橋】
八幡町、滝前丁と、川内三十人町を結ぶ広瀬川に架かる橋で、仙台城普請の際に渡河地点に石を積んで河を作り、国見峠付近から切り出した石を牛車に曳かせたため、この名がついたといわれる。橋ができる明治中期までは舟で往来する牛越渡戸(わたど)で、仙台三渡戸の一つであった。角五郎渡戸とも呼ばれた。

【碑文ー川内三十人町】
亀岡山の北麓、山裾に沿って割り出された町で、寛文九ー十一年(一六六九ー一六七一)の絵図では足軽三十人衆が配置されており、これが名の由来になったといわれる。山を崩し、木の根を掘って町屋敷としたため根子(ねっこ)町とも呼ばれた。牛越渡戸(わたど)から亀岡に上る坂を夫婦坂と称した。

*仙台三渡戸
長町渡戸、宮沢渡戸、牛越渡戸

北五十人町、滝前丁

*1 来迎寺(らいこうじ)入り口にある辻標(電柱右側)

*2 辻標

*3 辻標を背に北五十人町通を望む

*4 坂を下ると牛越橋に至る

写真*4の坂を下り牛越橋を渡って突き当たり左手に辻標【牛越橋、川内三十人町】がある。橋の下は河川敷となり、秋の”芋煮会”シーズンは多くの人々がここで楽しむ。河原の石を積み上げて釜戸を作り燃料には河原から流木や小枝を集めて使用する。ちなみに燃料がなくなったときは、近くのコンビニでが買える。(秋の芋煮会シーズン)


【碑文ー滝前丁】
八幡町の西端にある鶏沢の水は、観滝院観音堂の裏から広瀬川の崖にかかる滝となる。この崖に平行して八幡町から牛越橋に至る坂道を滝前丁といい、南に侍屋敷北に浄土宗昌繁寺の末寺来迎寺があった。寺内にはモクリコクリの碑と称される弘安の古碑がある。

【碑文ー北五十人町】
滝前丁来迎寺前から東に角五郎表町につきあたる町で、古くは旗本御足軽五十人衆が住み、東端には御職人衆が住んでいた。旗本御足軽は他の御足軽よりは待遇がよく、年間玄米十八俵以上で、数十俵をうけていた。

*モクリコクリの碑

来迎寺入り口右手にある看板


*モクリコクリの碑の1つ

*石碑に彫られている文字の説明


有り難い、を常に心に・・・


日常の生活でいつもと変わらない日々を送ること、あるいは送っていること、すなわちこれが一番ありがたいこと

常にあることが当たり前ではなく、常に誰かのサポートがあり、誰かの”おかげ”があるからこそ

普段と変わらない生活が送れる.....

最近、ある仙台市内のお寺の告知板でみかけた一言 ......(太白区龍澤寺)※ご住職の許可をえて掲載


『 いちばん身近な人のおかげをしること それが 幸せの道である 』


ともすれば人は自分が今までしてきたことを”自分ひとりでやってきたこと”

自分一人でここまでできたと思いがちであるが、果たしてそうであろうか.....

この言葉をいまいちど自分の普段の生活に当てはめてみよう

毎日、朝昼晩、食事のしたくをしてくれる”妻”に感謝....

何気なく呼吸をしているが酸素を日々作ってくれている大自然に感謝....
 
ひとは一人では何もできないことを自覚して、時にはそれらにあまえて感謝の

を忘れず生きていきたい....

時として誰かに甘えなければならない事も出てくる。そのときは素直な心で甘

えよう。つぎは自分が誰かをあまえさせてあげられる、その日がくるまで.....


ベストセラー

crewltd.org

活性化が進む卸町、大和町周辺

*1  イオンスタイル卸町店屋上から卸町駅方面を見る

*2  イオン屋上から市街地方面を見る

*3  この角地(更地)がどの様に変わっていくか..... (左手の奥がセイユウ大和町店)

*4 更地の右手がセイユウ大和町


地下鉄東西線の開業に伴いますますこの地域が脚光を浴びてきた
スーパー、ホームセンター、高層マンション......
駅がすぐそばにあるだけでこんなにもちがうものか.....
また、荒井方面へむかって次の駅、六丁の目駅周辺も開発が進む
開発が進むにつれてどんどん景色が無機質な味気ないものになってきている


何人が気づく?

*1 石碑は右側の信号機柱の左(横断歩道を渡って左)

*2 奥の右手が楽天球場 

*3 石碑

野球観戦で人や車が行きかう中で、何人がこの石碑に目を止めるだろうか
当時の風景を語りつげるのはこの”石碑”だけである
たまには立ち止まって見てほしい....



【碑文】  東街道
東街道は「あつま」への道で白川から多賀城までの道であった。
この街道は仙台市では、鈎取から木ノ下の西・宮城野原を経て多賀城に向っていた。
 
【碑文】   東街道        騎兵捜索第二聯隊
   騎兵  第二聯隊之跡     大正十四年川内からこの地に移駐
   捜索             宮城野の萩食ひさかる軍馬かな
                              虚子




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