トッシーの伊達なブログ

”グルメや観光だけじゃない、私が感じたちょっとイイとこ!!”

政宗さまご帰仙!!


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  *快気祝いの案内板

 

 

 

ニッカウヰスキー仙台工場

3月15日にいってきた。天気も良く見学ツアーには最高の日であった。ただ季節が季節だけに””花粉””がすご~い❕。花粉症の方は対策を万全に‼

海外からのバスツアーのお客さんが多かったが皆さん、最後は試飲コーナーで試飲して顔は真っ赤でした。*6の係員の方のジャケットと同じ色。(笑)
係りの人との記念撮影もお薦めです。こころよく応じてくれますよ。敷地内は写真はOKですが動画撮影はNG、係員さんの指示に従ってくださいね。それから、最後のギフトセンターを出て右手に少し歩くと“新川(にっかわ)”が見えます。*4の写真にもあるとおり、キレイながあるからこそのウヰスキー工場
の所以がわかりますよ。景色も素晴らしくホントに絵になる風景ばかりです。





宮城峡蒸溜所 | 予約TOP - nikka-project - ニッカウヰスキー
https://distillery.nikka.com>miyagikyo>reservation


 *1  ここから受付に入る

*2  ニッカウヰスキー仙台工場配置図

*3  ヴィジターセンターで受付を済ませると右手の建物から見学ツアースタート

*4  ”自然を大切にしなければおいしいウイスキーはつくれない”

*5  敷地内にある公園の一角

*6  真っ赤なジャケットを着た係員の案内に従ってください (了解を得た上でアップしています)

*7  受付から駐車場方面を見る 右手の建物はギフトショップ キレイな水の”新川”も観てくださいね‼

*8  見学ツアーの最後にあるギフトショップ(試飲コーナーがある)

*9 北海道から来た観光客(了解を得てアップしています 2023.3.31)

10 マッサンとリタ 

11 海外からのお客様

*12 ギフトセンター裏の新川


datenatossii.hatenablog.com

 *タクシーの御予約は.....

www.sento-taxi.co.jp

3.11に想う. . . . .

 今日、仕事で石巻方面に行ってきた。普段と変わりない風景であるが、無意識のうちにあの日のときの風景と、どうしても比べてみる自分がいる。帰り道は来た時と別な道を通ってきた。、、、、 ふとナビの画面が目に入る、、、、道がない所を走っている。ナビの矢印のマーカーはムリにその付近に近い道路上にマーカーをもっていきたがる、、、(ナビのソフトウェアが古い人はわかると思います)否が応でも12年前に引き戻されているようである。ナビは諦めたかのように無抵抗になり、おとなしく車の進行方向に矢印を進める。まるで空を飛んでいる感覚になる。、、、今度は機械(ナビ)ではなく自分の記憶が無理やり12年前に引き戻す。石巻工業港を過ぎたあたり、、、。当時は犠牲になられた方が多く、埋葬するにも火葬が間に合わなく、また、亡くなられた方の確認もおぼつかない状況であった。その時私が目にした光景はブルーシートにくるまれ、仮埋葬されている方々であった。こんなにも多くの人が、、、。

ついでに言わせてもらえば、よく、『自衛隊は要らない。』とか『天皇は要らない。』とか、、、。あの震災の時、津波にのまれ、海水に浸かった車の中から亡くなられた方を救助したり、瓦礫に埋もれたご遺体をひきだしてくれたのは自衛隊員の皆さんですよ⁉消防の隊員の方々ですよ⁉、、、。ひと通り落ち着いてから海に向かって献花をし、皆(みな)の代わりに海に向かって深く深くこうべを垂れて戴いたのはどなたですか⁈、、、。陛下ですよ⁈

当時は食べ物や飲料水が無く苦労したが、被災した「キリンビール」さんや「マルちゃんの東洋水産」さんには申し訳ないですが、港の工場から流されてきた缶ビールやカップラーメンを水溜りから拾ってきて泥を落としながら食させていただきました。ありがとうございました。スーパーで買い物をする時には意識してキリンマルちゃんに手を伸ばしていますよ。(せめてものお礼です)。
 

避難をしていた時は車の中で寝た人も多いと思うが、何も考えられない状況下で見上げた夜空の星がなんと明るくキレイだったことか⁈『また見たい‼』気もするが、あんな状況下では見たくない。複雑な気持ちである。
また3月11日がやって来る、、、。          合掌                                                                             
                                          

*野蒜海岸の鳥居

石巻駅前の津波の立て札

気仙沼

気仙沼港 港を見つめ想いに耽る男性


 *タクシーの御予約は.....
www.sento-taxi.co.jp

ChatGPT ?!

仙台城址にお客様をお送りした帰り道、東北大学の工学部内の通りで学生さんをお乗せした。「どちらまでですか?」『ヨドバシカメラまでお願いします。』
その 学生さんは情報工学を勉強しているらしい。私はネット上で見た人工知能AIの中でも“世界が驚愕”したAI!。その大きな見出しを見ただけでいたが、学生さんに質問をしてみた。「あれはどういうものなんですか?」『よくご存じですね。』

ネット上で見て、早速ダウンロード、使ってみた。‼すごい!ホントにすごい‼ブログを更新するときも、わからないことを入力するだけで文章で詳しく表示してくれる。それを コピペすれば速く、正確な情報の記事が書ける。どうしたものか⁉ブログ更新よりもChatGPTに興味がわく。みなさんも是非とも試してみて下さい。*open ai の公式サイトを見て。似たようなのがいっぱいあるので要注意です!

先の学生さんに「卒論、レポート課題なんかも簡単にできますね?」。『そうですねー、でもそれを見破るソフトもあるそうですよ』。キツネとタヌキの莫迦しあい、いたちごっこ?でも凄い時代になって来たものだと思う。シンギュラリティ2045年も直ぐに到来しそうだ。それまでは長生きして、実際の状況を確認してみたい。酒好きな自分の生活習慣を改め⁉その時代、sinngyurarityを体感したい。みなさんもそう思いませんか⁈そろそろ限界、日本酒が効いてきた、おやすみなさい。

2023年2月の蒲生干潟の様子

遠くに仙台市内の高層ビルが見える

仙台新港方面を見る

*この近くにはもう直ぐ、バイオマス発電の施設が完成する。どんどん時代の進歩は加速する

新弓ノ町、八軒小路

*1  信号機を斜め右側に曲がると八軒小路、左側は新幹線の高架橋

*2  八軒小路から河原町方面を見る

*3  *2の逆から*1方面を見る、辻標は右側

*4  新弓ノ町の通り

*5  辻標

この八軒小路榴ヶ岡連坊小路方面から長町へ行く時の抜け道的存在の通りである。”辻標”は八軒中学校の敷地にある。朝は通勤通学で混雑して渋滞する。しかし、今整備工事をしている榴ヶ岡連坊小路を通り、荒町通りを横断する跨道,跨線橋が完成すれば渋滞は幾分,解消されるであろうがタクシードライバーとしてはあまり通りたくはない道路である。近くを流れる七郷堀周辺はレトロ感があり広瀬川方面へ遡れば仙台駄菓子で有名な石橋屋さんがある。

【碑文ー新弓ノ町】
延宝六年(一六七八)に当時奉行職にあった布施和泉により新たに組織された御弓組が居住した町。町内の八幡神社は京都の石清水八幡宮の分霊といわれ、享保二年(一七一七)布施氏により勧請された。

【碑文ー八軒小路
元は石切町と長町通(連坊小路から広瀬橋に至る通りで十二丁目まであった)の間の小路。南側は旧小泉村分の畑地で、北側に人家が八軒あったためこの名がある。大正期に長町通八、九丁目(南染師橋から新弓ノ町へ至る通り)も八軒小路となった。  

東松島、野蒜(のびる)駅

*1 鳥居のある浜辺を防潮堤の上から撮影

*2

*3  いつまで待っても列車の来ないホーム

*4

*5

*6 拡大してご覧ください

*7 拡大してご覧ください


 1月29日(日曜日)、マスコミ関係者を乗せて震災遺構 仙石線 野蒜駅に行って来た。雪がまだ残っていたが、交通に支障なく到着した。

雪のなか、わざわざ関東地方や名古屋方面から来ていただき感謝?申し上げます。

私の記憶の中の野蒜は海水浴で来た時のものである。それも20年以上も前であ

る。

駅前の川沿いに“かき氷”の旗が立っていたお店があったこと位、.........。

海岸線の見える防潮堤まで行って浜辺を眺める.......。4~5人が砂浜を歩いていた。

私のお乗せしたマスコミ関係者も浜辺に降りて写真撮影していた.....。

浜辺には鳥居が建っていた。この光景を見た時直ぐに思い出したのは、今の上皇

まが天皇であられるときに海に向かって頭を下げていた光景である。どこの海かは

覚えていないが震災で亡くなられた方々への哀悼の意を込めてであろう........。うま

くは言えないがこれこそ天皇陛下の存在意義”を世に知

らしめる1番の行為であっただろう。

それにしても何故か冬の海辺は物悲しい......。



 

国分町、大町

*1  国分町通りから青葉通り方面を見る、辻標の左側は日本銀行仙台支店

*2  信号機の先はアーケード付近、左側に見えるのは日本銀行仙台支店

*3  国分町方面を見る、(芭蕉の辻交差点)

*4  辻標


*3の写真のアーケードとは反対側、背中側は青葉城址の大手門に続く。つまりは政宗の時代にはこの通りが銀座通りであった。

【碑文ー国分町
大町三、四丁目の境芭蕉の辻から北、二日町まで。開府の際国分寺門前町を移したという。毎年馬市が、また毎月一日から十一日まで伝馬発着の駅、年末には歳市と、特権の多い町として栄えた。明治初年富商十九軒あり、十九軒店として宣伝した。

【碑文ー大町】
御譜代六か町の筆頭として御城御見通の町に、元柳町角から東へ、東二番丁角まで五丁に割られ、それぞれ古手、木綿、呉服、小間物、油筒の専売権が与えられた。特に一、二丁目には城下きっての豪商が住み、領内経済の中心であった。

  市制施行八十八周年  仙台市