トッシーの伊達なブログ

”グルメや観光だけじゃない、私が感じたちょっとイイとこ!!”

田町、清水小路


*1  辻標

*2  学院大学を背に荒町方面を見る 辻標は左 

*3  荒町交差点から五橋方面を見る  (辻標は植え込みの上)  

長町に下宿していたころに、同じ下宿人に、学院大生と東北大生がいた。

たまに各自の部屋に集まり”飲み会”をした。

お金のない学生の飲み会は当時”東京第一ホテル”のバーでアルバイトをしていた

先輩が期限切れボトルをもってきてくれた。 お金はないが”オールドパ

ー”や”バランタイン”など高級な洋酒類がタダで飲めた。予備校生のぶんざいで

東北学院大の

”礼拝”にも参加、また授業も代わりに”代返”(出席を確認する際にその者に

代わり返事をする)して講義を受けた。
 
学院大正門のななめ向いに当時、東北大の”学食”があり、(記憶によれば)そこ

をよく利用した。東北大生だけではなく、学院大生も利用していた。学院大

の”学食”よりも、安くてボリュームがあったからである。

また、下宿に先輩から電話がきて、「今から来れる?(雀荘)」というわけで

大学近くの雀荘にもよく行った。私は高校生の頃から友達と麻雀はやっていた

のでできた。当時と違い、現在では雀荘はみあたらない。遊びのジャンルもか

わってきたのか.......

【碑文田町町】
上染師町から荒町に至る間で古道に沿って開府前から家が並んで
ともいう。仙台築城の時手伝の功により紙の専売権を与えられた。仙
台指入御通町として荒町がこの東に移されるまで城下の南の玄関口と
なっていた。  市制施行八十八周年記念  仙台市

【碑文ー清水小路
北目町六道の辻から田町荒町の境までをスズ小路といった。巾広い道
の中央の堀を湧水が流れ両側に上級武士の屋敷があった。鉄道敷設の
とき東照宮から一直線であった道は駅附近で寸断され、小路は学校、
工場の町となり電車が通り、愛宕大橋ができ明るく変った。

覚悟して登れ❕  ”大年寺”


*1  山門

*2

*3  登っている人に注目 その先は.....

*4  約300段あるらしい

新緑の季節には最高の場所である*4

しかし、階段を登るとなったら話は変わる

少々、覚悟して登らないと後悔する

いくら”足に自信”がある方でも後戻りできない

登り切ればそれなりの達成感を味わえるが疲労感”のほうがそれに勝る

登り切ってまた、*5の車を止めてある所まで戻ることを考えると気が遠くなるのはわたしだけか.....

*5  山門を背に国道286号線方面を見る

*私は早朝に行ったので車をこの様に止めたが山門右手の駐車場にことわって止めること
近くのショッピングモールの駐車場もあるが少々距離がある

伊達家ゆかりの地でもあるので気温が上がらない朝方から巡ることをお勧めする  (できればタオル持参で)

やりっぱなしは””何もしない””よりまだワルイ⁉

t.co
*1  辻標の下部が埋もれている

*2  雑草や植え込みで碑文を読めない

*3  背後の植木や日照の関係でコケなどで碑文を判読難

*4  電柱や街路灯の柱等が多く見づらい

*5  度重なる路面改修工事で辻標下部がいまにも埋まりそう

*6  一見キチンと管理されているようにみえるが立て看板の柱が邪魔で碑文が読みづらい

*7  正面からみても分からない(*6と同じ場所)

*8  辻標ではないがこの表示板もペンキがはがれ支柱は錆びてそのうち折れそう

辻標は仙台市市制施行八十八周年記念事業の一環として行われたが現状は写

真を見てもらえばわかる

お金をかけて設置しているのであればその価値を維持する努力も必要である

誰も見ないのではなく私のような者もいるのである

それを見たくてわざわざその場所に行くのである

老若男女問わずだれもが愉しめるものでなければならない

わざわざ辻標の付け根を素手で掘って碑文を読もうとする人もいるのである

たしかに地権者や管理者の関係もあることは理解できるがもう少し一考を促し

たい

メンテナンスをするにあたり、担当者が巡回すればその価値があがり、それに

よってまたの良いアイデアが浮かび、次なる市の事業計画ができ、強いては地

域の活性化につながり、より良い循環が生まれることを期待したい

より良い 杜の都 仙台』の未来のために.....

北四番丁、上杉山通


*1  写真、左右が上杉山通

*2  辻標

*3  手前から奥へ伸びる道が北四番丁➡宮町方面へ

*4  上杉山通から仙台駅方面を見る  中央の高いビルはNTTDocomo


このあたりは再開発が進み東北大学農学部青葉山に移転し、その跡地にマンションや商業施設ができつつある
道路は広く朝夕は混雑するが比較的に静かなイメージがある
勝山酒造の蔵などがあり公園も広い

若い頃、今の妻と結婚する前、勝山ボールによくボーリングに来ていた
わたしは滑ったことはないが、スケート場もあった


【碑文ー北四番丁
土橋通から東に宮町西裏の佐沼邑主宿老津田氏の広い屋敷につき当たる長い
侍丁であった。七代藩主重村は意に合わずと津田氏を改易し、四番丁は屋敷を抜けて宮町に達した。明治年間木町通小学校、大学病院ができ、電車
開通で勾当台通以西は八幡町まで広げられた。
【碑文ー上杉山通】
藩政初期杉山台開発のとき北一番丁から四番丁まででき,延宝年間には北九番丁まで侍屋敷ができていた。その後北六番丁以北は田畑になった。幕末侍屋敷の割り余しは御酒屋の伊沢に与えられた。大正三年伊沢平征衛門は勝山公園を開いた。     市制施行八十八周年記念  仙台市

霊屋下、瑞鳳寺前丁


*1  左手の角が辻標

*2  辻標

*3  辻標を右側へ曲がり坂を登ると瑞鳳殿

*4  写真右の山にブルーシートがかっかているあたりが青葉山政宗の騎馬像がある  広瀬川をはさんで左手の森に瑞鳳殿がある


*5  広瀬川に架かる橋(ひょうじょうがわらばし)から右手の瑞鳳殿の森(経ヶ峯)を望む

*6 この坂を登ると瑞鳳殿


*6の写真の突き当たりの坂を登ると瑞鳳殿であるが坂はきつい
ご高齢の方はタクシーをお勧めする

私が仙台にいた頃は歴史には興味がなく、このあたりの記憶と言えば近くの評定河原球場での野球観戦ぐらい


【碑文ー瑞鳳寺前丁】
寛永十三年(一六三六)初代藩主伊達政宗公追遠のため創建された瑞鳳寺の門前町。寺の上手一帯が経ヶ峯で、政宗霊廟瑞鳳殿をはじめ二代藩主忠宗霊廟感仙殿、三代藩主綱宗廟善応殿、九代藩主周宗及び十一代藩斉義等の墓所がある。豪壮華麗な霊屋三殿は戦災で失なわれたが、近年復原された。

【碑文ー霊屋下】
霊屋丁ともいう。仙台開府当初は経ヶ峯の西北東をめぐる広瀬川の流水を利用する染師職人が住んだが、霊屋(瑞鳳殿)造営の際南染師町に移され、かわって御小人衆(藩の雑用をする下級の役)が霊屋警衛のために配置された。経ヶ峯一帯は永く霊域とされたため、自然環境がよく保全されている。    市制施行八十八周年記念  仙台市


作並街道、八幡町


*1   大崎八幡神社鳥居  辻標は鳥居の左側

*2  辻標

*3  辻標

*4  辻標の後ろに立つ立て看板が邪魔で碑文が読めない

ここの辻標もご覧の通りあまり良い環境とは言えない。看板が邪魔で碑文を読むには苦労する

このあたりは新年のどんと祭(1月十四日に開催される)が有名であり新成人の”裸参り”も有名である

が、しかし、旧成人の日、1月15日前の日に行うことに意義があるのではないかと私は思う

それを祝日法改正により変更されて、今に至る

これは宮城だけかも知れないが、新成人を裸参りの後に祝い、お酒をふるまったり........

然るに、翌日は休みとなる

今の成人の日が何日か正確いえる人は何人いるか.....

連休を増やすべく変更するのはいいが、宮城のような場合もある事を知ってもらいたい


平成10年の祝日法改正によって、平成12年からそれまでの1月15日から1月の第2月曜日に変更された


【碑文ー八幡町】
慶長十二年(一六〇七)落成の大崎八幡神社門前町で、正保絵図に禰宜町、寛文絵図には龍宝寺門前町とあり、町屋ではあったが町奉行の支配からは除かれ、別当寺龍宝寺の支配に任されていた。城下西はずれに位置し、明治以後も門前町茶屋町として栄えた。一月十四日夜の「どんと祭」は仙台を代表する祭の一つである。

【碑文ー作並街道】
仙台城下北目町より愛子・熊ヶ根・作並の各宿を通り、標高五九四メートルの関山峠を越えて山形に至る道で、峠名により関山街道ともいう。峠は急峻で馬も通れず荷は人足や牛で運んだといわれ、仙台ー山形間の交通路として賑わうのは明治十五年の関山トンネル開通以後である。昭和四十三年には新関山トンネルが開通した。


https://munakatagyu.com/?pid=139107724
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土橋通,十二軒丁

*1 厚生病院裏から望む

*2 左手の奥が厚生病院

*3 辻標から土橋通を望む


この辺も道路拡幅等で様変わりした

写真*3は昔は真っ直ぐ土橋通に抜けられたが今では抜けられない

いずれにしろ、朝晩の渋滞ヶ所である

余談ではあるが厚生病院は北四番丁上杉に移転予定



【碑文ー土橋通】
大崎八幡北裏から袖ヶ崎に至る深沢沿いの東側、北八番丁から北三番丁の間をいう。北三番丁と中島丁の間は沢で隔てられていたが、寛永から明暦まで十三年の間中島丁・角五郎丁の武家屋敷から人馬を出し、底樋を据え土橋を渡した。即ちこの土橋に通ずる道である。  市制施行八十八周年記念  仙台市

【碑文ー十二軒丁】
武家屋敷が十二軒並んでいたことに因む。土橋の北裏は巴谷という岩の高い難所であったが、天和年間岩を崩し十二軒丁に通ずる道を切り通した。明治十五年鳥頭坂、有巴坂を埋め新道ができ、有巴沢町、姥ケ崎町とも呼ばれたが、旧十二軒丁が廃道となり新道に旧町名がのこされた。