トッシーの伊達なブログ

”グルメや観光だけじゃない、私が感じたちょっとイイとこ!!”

長町1丁目周辺、橋姫明神

*1-広瀬橋上から*2-広瀬橋たもとから*3ー橋姫明神と石碑*4-橋姫明神由来

仙台市内から南へ旧電車通りを通って広瀬橋を渡るとそこは長町である

私が県北の高校を卒業して最初に下宿したところが長町であった

長町は大学が近い事もあり学生に人気であった  

また、物価も安くて夕飯どきには惣菜を求める主婦でいっぱいであった

余談だが男性(60~70歳)は知っている人は知っている“長町劇場”があった
興味のある方は仙台在住の60代の御仁に聞いてみるといい......

【碑文】
橋供養の石碑は、長町の伝説である橋姫を供養するために、現在の根岸町にあった木場に働く木場連の人々が、藩政時代の文政(*ぶんせい)6年(1823)に建立したものと伝えられる。その後、広瀬橋たもとでそば屋を営業していた南部家で石碑と橋姫祠(はしひめほこら)を預かり、長い間祭祠を執り行ってきた。都市計画道路によって南部家も移転を余儀なくされ、昭和57年(1982)に南部家では仙台市に橋姫明神社と橋供養碑,及び永町橋の**礎石を寄贈した。

橋姫伝説・・・藩政時代、この地に初めて永町橋(今の広瀬橋)を架けることになったが、長雨続きで広瀬川は氾濫し、橋を架けようにも架けられない状態であった。これは竜神様のお怒りに違いないとして、誰言うことなく信心深い若い娘を人柱にしないと橋は架けられないと噂が広まった。そのとき、長町根岸(百代の里)の長者の一人娘が「私が参ります。」と申し出た。娘は儀式に従って十八夜観音堂に籠もって断食をした後、川べりの木箱に入り埋められた。祈りの声と鉦(かね)の音はしばらく続いたが、やがてそれも消えるように途絶えた。すると川に光が射し、大水は見る見る間に引いて、無事に橋を架けることができた。
娘は橋姫として、今も地元で供養が行われている。            **礎石は祠の脇に置かれている

*5  十八夜観音堂  右側へ行くと橋姫明神


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